わなびねこ

ねこにシャドーロールを、おれの心にブリンカーを

手本引きと私

ひさしぶりに『ドサ健ばくち地獄』を引っ張り出してきてペラペラとめくってみたりしているのだが、何度読んでもやっぱり面白い。この本では手本引きの場面が数多く描かれており、そこが本書の大きな魅力のひとつでもある。手本引きのルールなんて単純なものなので、このゲームを知らない人でも読んでいくうちに覚えてしまうだろう。実際自分もそうだった。


ところで「ドサ健」という名前に聞き覚えのある人も多いのではないだろうか。そう、『麻雀放浪記』に出てきたあの「ドサ健」である。題名からしてもドサ健が主人公であることは間違いないのだが、かといって大暴れするでもなくあまり目立たない。その他の登場人物にしても『麻雀放浪記』に出てくるような大物はいっさい出てこない。サラリーマンだったり学生だったりバーデンダーだったり不動産屋だったり、そういう「普通」の人たちがマンションの一室を賭場として夜な夜な集まるという話である。はっきり言って『麻雀放浪記』と比べるとめちゃめちゃ地味である。だがその地味な設定が妙にリアリティを感じさせるというか、私はそこにゾクゾクした。まあ本の感想はまた機会があれば書くとして、今日は手本引きの話をします。


おれと手本引き、手本引きとおれ。手本引きというものを知ったのは阿佐田哲也の小説だった。読みながら自分もその場にいるような感覚になって興奮したものだ。知らない間にルールも覚えてしまっていた。

十代の頃、仲間内でよく麻雀をやっていたんですが、長時間やってると途中で飽きてきたりとか、あと負けてるやつが「なんか違うことやろうぜ」とか言い出したりして、そんなときに手本引きをやったりしました。もちろん手本引きの道具なんてありませんから麻雀牌を使います。だから正確には牌本引きというらしいんですがルールは手本引きと一緒。まあみんなど素人なのでセオリーも何もあったもんじゃないし、麻雀の集まりなので4人だとこのゲームをするにはちょっと人数が少ないかなっていうのもあるんですが、それでも十分おもしろかった。

手本引きというのは日本の賭博である。ヤクザ映画なんかの博打のシーンで、白い盆ござの左右にずらーっと人が座っているの見たことありませんか? あれです。あ、でもサイコロを2つ持って「入ります」とかいうやつは、あれは賽本引きといってまたちょっと違います。手本引きはっていうと、詳しいルールはwikipediaにも載ってますが、簡単に言えば、親が1から6までの数字の中からひとつ選んで子がそれを当てるという、ただそれだけの単純なゲームです。でも実はこれがなかなか奥が深い心理ゲームなんですよ。

親は6枚の札を持っていてその中から一枚選びます。子のほうもみなそれぞれが6枚の札を持っていて、その札を使っていろいろな張り方ができます。1点張りから4点張りまでいくつかの賭け方があって、自信度によって賭け方を変えるわけです。札の置き方などによって配当が決まっていて、どの賭け方もいちばん上に置いた札が第一本命(これを「大」という)で配当がよく、下のほうが低い配当にに設定されています。

もし親が当てずっぽうで札を選んだとしたら、それは単なる6分の1の確率になってしまうんですけど、そうはならない。そこがこのゲーム面白いところです。例えば、子のうちの1人が大きく賭けていたとします。すると親の心理としては、そいつには当てられたくないと考えるのは自然のことですよね。他には当てられてもいいけど、こいつに当てられるとヤバいなと。だからそいつが賭けそうな数字の裏をかこうとする。で、親がそう考えていることはその場にいる全員がわかっているわけですから、皆いろいろと推理を働かせるわけです。

同じメンバーで何度も長時間やっているとそれぞれの癖なんかも見えてきますし、そういったそれまでの経験で蓄積したものとその場の状況やら流れやらを考慮して互いの考えを読み合うわけです。そうなるともう当てずっぽうというわけにはいきません。もう偶然なんかじゃなくその数字は必然なんです。だから単なる6分の1のサイコロを振るようなゲームなんかじゃなくなってしまうんです。ここが賽ホンとは違うところであり、手本引きが心理ゲームであるというのはこういうことなんです。

それと、個人的にはこれがこのゲームをより面白くしていると思うんですが、出目の順序を表す札があるんですよ。小説の中では「モク」と書かれていました。これは、親が選んだ目の履歴をわかるようにしておくための6枚の木札のことで、親は勝負のたびに自分の選んだ数字の札を右端に置き換えていくわけです。つまり、モクのいちばん右端の数字がたった今出た目で、その隣がひとつ前に出た目、逆に左端にある数字はいちばん長いあいだ出ていない目ということです。親も子もみんなこのモクを見て、次の目を考えるわけです。ちなみに直前に出た目と同じ数字のこと(つまりモクでいうと右端の数字)を「根っこ」と言います。右から2番目は「小戻り」、以下「3ケン」、「4ケン」、「フルツキ」、そして一番奥(左端のこと)が「大戻り」と言います。

このモクの存在によって、数字そのものだけではなく、モクの位置という要素も加わることになります。「何をひくのか」と「どこをひくのか」という2つの視点で考えることになるわけです*1。よくあるのが数字は違っても連続して同じ場所をひくっていうのがあります。数字のことばかり考えていたら、フルツキを連続してひかれて、「あー、あそこを狙っていたのか」みたいなやつです。

あと、わかりやすいところでいえば大戻りなんですが、一番左端にあるわけですから一番長い間出ていない数字です。親がこれをいつ入れるのかっていう問題です。それは誰も口にしなくても全員が注目していますから、これは場におけるもっとも重大な関心事といってもいい。場合によっては前の親からずーっと出てなかったりして、もうそんなとき親はそこ選べないですよ、みんな狙ってそうで。もうそうなったら選択肢が5つになってしまいます。

親の立場になると、やっぱり根っことか大戻りはリスクが大きい。いつも狙われてそうに感じてしまうんですよ。反面うまく子方の注意をよそにやっておいてここというときに出せば総取りということもあり得ます。しかし、いかんせんモクとしての個性が強すぎる。またフルツキを連続してひくとか小戻り小戻りと続けるとか、そういうのも単純すぎるような気がしてやりにくい。で、どんどん弱気になっていって、もう選ぶところがなくなってきて、迷いに迷って無難に3ケンとか4ケンとか引いたら、みんな大に入れてたりとか、そういうこともあります。このように各数字に異なる意味というか重みが乗っかることによって面白さが増すわけですが、それを目に見えるようにしているモクの効果は大きいと思うわけです。

ここまで読んで「こんな単純なゲームの何が面白いの?」って思ったりしてませんか? いやいや、これが博打なんですよ。究極の博打といってもいい。阿佐田哲也の小説でもよくこんなセリフが出てきます。

「麻雀なんて小一時間かけてやっと勝負がつくようなもんは、まどろっこしくてやってらんねえや。こんなもん博打じゃねえ」


博打打ちというものはやるかやられるかという思考なわけです。結局すべてを失うまでやるんだから、それなら手っ取り早いほうがいい。彼らはそういう思考をする生き物なんです。だから麻雀なんて博打とは言わない。最終的にはチンチロリン*2に行き着くみたいなことを言う人もいました。カジノでもハイローラー*3が好んでやるのはバカラ*4と相場は決まっています。そういう意味でいうと手本引きはまさに博打打ちのための博打、キングオブ博打と言えるのではないでしょうか。

話を戻します。手本引きでは本来、大きく儲けようとするなら親をやれと言います。何回か総どりみたいになれば一気に儲かるからです。でも我々のような素人がやるとなぜか親の考えが読まれてしまってなかなか勝てないんですよ。なので、みんなあんまり親をやりたがらない。そこで公平を期すために親は5回ずつ順番に回していくというルールを決めてやっていました。だから自分に親が回ってきたらその5回をどういうふうに乗り切るかシナリオを考えるわけです。言ってみれば野球の投手が配球を組み立てるようなもんですかね。最初にインコース投げておいて、次は外にスライダー投げて、最後にまたインハイいくか、それとも真ん中から落とすか、みたいな。

でも、ど素人の考える幼稚なシナリオなんて簡単に読まれてしまいます。っていうかシナリオなんて考えるからダメなんですけどね。それにしてもこれ不思議なんですけど、たまに全員の考えが一致するときがあるんですよ。たぶんみんな、親の考えたシナリオが途中でわかるときがあるんですよ、なんとなく。3回目ぐらいのときに「もしかしてこれは……」って思うときがあるんですよ。外、外、と来て、最後の決め球はこれやな、みたいな。それで、4回目は思った数字をわざと押さえぐらいに入れておいて様子を見るんですよ。そしたらやっぱりその通りにきたってなって、それで最後、みんないっせいにスイチ(1点張りのこと)で張ってくるんです。いやマジで怖いですよ。ずっと3点張りとか4点張りとかで賭けてたのに、みんなニヤニヤしながらいっせいに1点張りで賭けてくるわけです。ほんと不思議なんですけどこういうときはたいがい当てられてます。おそろしいおそろしい


というわけで、とにかく手本引きはとても奥が深くて面白い心理ゲームだということを書いてみました。今は道具もいろいろと手に入るようですし、まあ麻雀牌があればそれでも十分代用できますので、よかったらみなさんやってみてはいかがでしょうか(やるかよ)。

豆一六 大将軍

豆一六 大将軍

張札 大将軍

張札 大将軍

*1:親が6枚の札の中から1つの数字を選ぶことを「入れる」と言います。また「ひく」と言ったりもします。

*2:サイコロ3個を投げるだけの賭け事。映画『麻雀放浪記』の冒頭でこのチンチロリンのシーンが出てくる。

*3:カジノなどで高額な賭け金でゲームをする客のこと。

*4:おいちょかぶと似たトランプゲーム。

ストーリーのない人生

小説、映画、ただ話の筋を追っているだけだった。だから意味が理解できなかった。何が面白いのかわからなかった。皆、書かれていること以外の意味やその裏にあるストーリーを読んでいたのだ。


自分はやっぱりストーリーというものが好きではないらしい。事実の羅列のほうを好むようである。ふたつをくらべたときに、事実の羅列のほうが魅力を感じることさえあるかもしれない現実とストーリー - わなびねこ


そして、多くの人は自分の人生にストーリーを見出して生きている。過去を思い出すときにもストーリーとして思い出す。私はストーリーなどまったく感じることなく生きてきた。だからなのか、昔のことを、子供の頃のことをほとんど覚えていない。ストーリーとして認識していなかったからだ。自閉症者は心の理論が未発達であると何かで読んだ。私もその傾向があったのかもしれない。ストーリー、意味、ナラティブ。そういうものを楽しめる人がうらやましく思うこともある。だが、あくまでも娯楽としてということであって、現実にはそんなものはない。


この世にストーリーというものは存在しないと考えている者にとっては、ただの日常のできごとになんらかの意味をつけられた時点で、どうしても違和感をおぼえてしまう現実とストーリー - わなびねこ


この世界には意味などないし、人生にも意味はない。物語などというものは錯覚に過ぎない。面白くないかもしれないがそうなのだからしかたがない。


「すべてのことに意味がある」と思える人は、つらい出来事や思うようにいかないことがあってもそこにさえ意味を見いだしストーリーの中に生きることができる。自分が送ってきた人生の意味、自分だけの物語、ナラティブ。人生に意味を見いだしナラティブの中に生きることは、ある意味では究極の現実逃避である。思い込み、錯覚、そしてストーリー - わなびねこ


われわれ人間は意味を求めてしまう生き物である。私のような人間でもなにがしかのストーリーを見出そうとしているように感じることもある。私たちの自我というもの自体が錯覚の上に成り立っているわけだから、意味もストーリーもないといって抵抗したところで勝ち目はないのかもしれない。


とにかく人間の意識や自由意志が幻想あるいは錯覚だというのなら、その幻想や錯覚にいかに適応できるかということではないか思い込み、錯覚、そしてストーリー - わなびねこ

気疲れ日記

・主治医の先生にわたすメモを作成。
・デイサービスでのちょっとした問題行動の件。
・どういうふうに伝えればいいか難しい。
・薬を増やしたいのか増やしたくないのかなど、こちらがどのように思っていて、またどのような要請があるのかなど、ニュアンスが難しい。
・で、当日、やっぱりうまく伝わらず、ちょっと想定外の答えが返ってくる。
・家族としては、それはちょっと不安がある、みたいなことを恐る恐る言う。
・するとムッとした顔をされ、あんたがそう書いてたんじゃないの、みたいな雰囲気。
・とっさにうまい言葉が出てこない。
・施設側からと身内からと主治医からのプレッシャーにより、おれピンチ。
ガキの使いじゃあるまいし黙ってハイハイと帰るわけにもいかないので、つたない言葉でなんとかこちらの考えを伝える。
・いろいろおかしなこと言うてすんませんと言っておく。
・すると先生もぶっちゃけた感じで答えてくれて、いい感じの結論となる。
・各方面に連絡。それぞれどう思ったかは知らんけど、まあこれでよかったのではないか。
・いろいろ気ぃつかうわほんま。
・疲れたわ。

七夕の季節になると思い出すのは

今年の七月七日は日曜日。ということは、そう、ちょうど七夕の日に七夕賞が行われるということである。七夕が過ぎてしまったあとの七夕賞というのは、桜が散ってしまったあとの桜花賞みたいなもの。だから、ちょうどその日に、というのはぴったり感があってよろしい。同じ日には織姫賞とか彦星賞なんていうロマンチックな名前のついたレースも組まれている。

七夕の季節になるといつも思い出すのはあのレース。たしかあの年の七夕も日曜日だった……のだが、七夕賞は前日の土曜日に組まれていた。日曜日には宝塚記念があったからだ。その七夕イブ(「ななタイブ」じゃなくて「たなばたイブ」ね)であるところの土曜日、私は大阪日本橋にいた。パソコンを買うために。私にとっての初めてのパソコンであった。あの当時、家電やらオーディオやらを安く買うなら日本橋と思っていたので、パソコンもここだろうということでやって来たのである。

しかしさっぱりわからない。事前にインターネットで調べることもできない時代。というかインターネットをするためのパソコンがなかったのだ。いまはすっかりさびれてしまっている日本橋だが当時は活気に満ちあふれていた。あの電気街を端から端までめぼしい店をのぞきながら歩いていくのである。しかし、何軒も何軒も見て回るうちに体も頭も疲れてしまった。そこで、ちょっとこの場を離れて頭を整理しようと思い、若き日の私は休憩がてら大阪球場まで歩いて行くことにしたのだった。大阪球場が場外馬券売り場として使われていた頃の話である。

私はいつも競馬ブックを愛用していたのだが、七夕賞1レースのためだけに専門誌を買うのもアホらしいので、モニターで出走馬とオッズを眺めて買うことにした。適当に3頭選んで馬連ボックス買い、千円ずつ3点。サクラエイコウオー西田雄一郎)とグロリーシャルマン(大塚栄三郎)ともう一頭は思い出せない。いまちょっと検索してこのレースの出走馬を見渡してみると、スプリングバーベナだったかマイネルガーベだったか、いやたしかオンワードノーブルだったような気がする。鞍上は町田義一。町田という騎手がどんな顔なのかもまったく記憶にない。

私は焼きそばを買ってそれを食べながらモニターでレースを見た。適当に馬券を買って適当にレースを見ていたわけである。すると、私の買った馬が先頭と2番手で最終コーナーを回ってくるではないか。これは獲ったんちゃうん! 俺の頭の中の高性能デジタルが払戻金をはじき出す。オッズは280倍、1000円×280倍=28万円! うわ、パソコン代浮いたわ! 余裕で買えてまうやん! などと喜んだのもつかの間、中舘英二騎乗のエスプレッソトニーが突っ込んできて1着3着。黄、黒縦縞、袖青一本輪の見慣れた勝負服、帽色は黒だったのをいまでも覚えている。

とにかく勝ち馬よりも2着馬が印象に残っている七夕賞の思い出。