わなびねこ

“その言葉に反応できるだけのものは自分の中で準備されていて、あと一行を待っていただけなのだから…”

よい読者にはなれない

んでね、たいていにおいては、書き手にしか焦点があってないんですよね。でもほんとうに重要なのは読んでくれる人なわけですよ。「ちゃんと読んでちゃんと反応してくれる人」にこそ焦点が当たるべきなんですよね。ブログ書いてる人もなにかしら表現活動をしている人も、ぶっちゃけそういう人の反応が欲しいんじゃない?って俺は思うんです。むしろそれ以外の反応なんていらなくない?って。んで後者のような反応ばかりだよね〜っていうのがいわゆるSNS界隈における俺の印象というか。要するにSNSの正体って自分の話だけをしたい人が集まってるだけっていうね。人の話を聞こう - friedhead's


これはそうだよなあと思うと同時に耳の痛い話でもある。毎日感じている。ブックマークするときなんかに「これたぶんむしろそれ以外の反応なんだろうけど……」って一瞬躊躇する。特に個人ブログをブックマークするときには毎回毎回葛藤がある。

「ちゃんと読んでちゃんと反応してくれる人」でありたいっていう憧れはある。ちゃんと理解して気の利いたコメントとか書けたらかっこいいのにっていつも思う。そういう気持ちはあるけど自分には無理。もう諦めてる。

friedheadさんは余計なことは言わないということを貫いている人っていうイメージ。何か言うにしてもみなまで言わないというか。そういう美学を持ったかっこいい兄さんという感じ。friedheadさんの書くものはいつも、ちょっとこう、抽象的というか、僕にとっては少し難しい。「これ、どういう意味?」「ここ、もうちょっと具体的に書いてほしいわー」って思いながらいつも読んでる。

ちゃんと読めてる自信がない。いつも。いや、誰の文章でもそうだな。理解できてない。そのくせに、わかってもないくせに、何か書かずにはいられなくて、くだらないことをブコメしている。まさにむしろそれ以外になってしまっている。申し訳ない……。

というかここでみなさんに謝りたい。頓珍漢なことばかり書いてすんまへん。「そんなことないよ」って言ってほしいわけじゃないからね。 まあ「かめへん、かめへん」ぐらいは言ってほしいかも。

なんか話がずれてたらごめんなさい。

いやたしかに、そういうふうにしか読めてないという自覚はある。なんでもかんでも自分のことに関連付けてしまう。書き手が何を言いたいかとかそっちのけで、「まあ僕の場合はこうこうで……」みたいなことばかり書いてしまう。というか、そういうふうにしか読めない。自分に寄せて読むことしかできないし、自分のことしか書けない。

そして、すべってるっていう自覚もある。すべってるというかはずしてるというか。どうやらすべっているようだ、みたいな。昨日も今日もいつだってすべっている。

それならだあっとれやということです。

でも、このブログやはてブをやる目的、動機は、自分もなんか言いたい、なんか書きたいっていうのがあって、それは普段の生活の中では言えないあるいは言わないだろうことを、ここでなら書ける、書いてもいいだろう、という気持ちがあって、だからそもそもが書くべきではないことを書くことが目的なのであって……。恥ずかしいことであっても、みっともないことであっても、ここなら書いてもいいんじゃないかと。でもなかなか思い切れなくて中途半端になってしまっているのがよくない。

いやホントに常々申し訳ないと思ってはいるのですが、だからといってそういうことを考えてしまうと、これはもう何も言えなくなってしまいますし、そうなるとインターネットで何も言葉を発しないということになれば、それはこの空間では死を意味します。迷惑であっても無意味であってもゴミのような発言であっても、何か言葉を発していなければ、それは即ち死と同義であり、僕はやはり、できればもうしばらくこのインターネットで存在していたいと、そう思う次第で御座候。

なんか話がずれてるけどごめんなさい。

僕は「ちゃんと反応」する以前に「ちゃんと読む」ことができていない人間なので、他人のコメントを読んでそれを理解の助けにしたい。いろんな人のコメントをヒントにしたいと思っている。だからあまりハードルを上げずに、できるだけ多くの人がコメントしてくれたらいいなあと思っている。その前提として冗談とかウケ狙いとかじゃなくて、一応ちゃんと読んでいるつもりの人のコメントを読みたい。

あとやっぱり、いろんな人の、普段なら人に言わないような、内面のぐちゃぐちゃした部分を読んでみたいという気持ちがある。かっこ悪いところや恥ずかしいところ、そういうのこそ読んでみたいという気持ちはある。

どうも失礼しました(ブックの藤井風に)。


 * * *


まったく意図が読み取れていなくて、的外れなことを書いていたという話です。


能のない人間は沈黙すべきである。だけど……という話です(最後のほうに書いてあります)。

くるくるパー

母を病院へ連れて行く。その後公園へ連れて行き、花を見て歩く。雨が降らなくてよかった。風があって涼しくてよかった。けっこう咲いていてよかった。楽しそうに見て歩いていた。絵を描いている人がいて「ちょっと見たい」と言ってのぞきに行っていた。

今日は調子が良くてよくしゃべっていた。食事も「おいしいな」と言って残さずに食べた。デザートも「おいしいな」と言ってうれしそうに食べていた。デイサービスでの出来事をたくさん話していた。他の利用者であるOさんの話をよくする。Oさんはいつも食事をしたことを忘れて「ごはんまだか、ごはんまだか」と言っているという話は何十回も聞いた。

でもたまに新しい話をしてくれることがあって、今日はOさんとYさんがケンカをするという話だった。「どんなふうにケンカするん?」と聞くと、「Oさんがな、『くるくるパー』って言うねん。ほんだらな、Yさんも『くるくるパー』って言うねん」と、身振りをつけて言う。両手でくるくるっとやったあと、“ゲッツ”みたいに相手に指を向けるらしい。「なんやねんそれ、子供のケンカやなあ」と言うと、「ふたりで『くるくるパー、くるくるパー』って言い合ってんねん」と言って笑っていた。Oさん84歳、Yさん91歳。「ほんでな、Oさんに『歳いくつ?』って聞いたらな、『じゅうはち』って言うねん、あの人」

今日は機嫌よく過ごしてくれてよかった。楽しそうにたくさんしゃべってくれてよかった。こんな感じで和やかに一緒に過ごせるのも、もしかしたらこれが最後かもしれないと思ったりする。そういう意味で今日はよかった。

六甲山メモ(芦屋川~六甲山最高峰~宝塚)

最近、山に行くときなどは早起きして早朝の電車に乗ることがある。今までそのような時間帯に電車に乗ったことはなかった。初めて乗ったときには、さぞかしガラガラなんだろうと思っていたのだけど、駅のホームには思ったよりも人がいて、電車に乗ってからも駅に着くたびに次々と人が乗り込んできて、しまいには大勢の人が吊革を持って立つほどの混みようになり、こんな時間からたくさんの人が動き始めていることににびっくりした。朝5時台の電車がこんなに混んでいるなんて知りもしなかった。

今回は阪急芦屋川駅から六甲山最高峰まで行き、宝塚へ下りるルート。またいつか行くときのために写真を添えて通過タイム等をメモしておく。一年後とかだと確実に忘れていると思うので、行く前にこれを見ればいいように記録を残しておくと役に立つはず。いつもメモしておこうと思いながらつい面倒でやらずじまいということが多いのだけど、今回は忘れないうちにやった。けっこう面倒くさかった(ちなみに写真は前に行ったときのものも入っている)。

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死んだほうがいいという結論はとっくに出ているのにいつまでも生にすがりついて死ねずにいるという意味では人生と同じである何かについて

本当はもっと気軽に日記のようなものを書きたいのに。日記というか毎日生活している中で、思ったことなどを書き留めておきたい。ただそれだけなのに、それが簡単に書けないから困っている。言葉が出てこない、文章にならない。もともとアホウなのか歳をとってこうなったのか。とにかくこのポンコツ頭ではどうにもならない。ただの日記を書くのに何時間も何日も何週間も何か月も、馬鹿じゃないのか。気がつけばずっとパソコンの前にいて、呆けた顔をして何時間も何時間も座っている。おかげで他のことが何もできないじゃないか。おまえ馬鹿じゃないのか。

もうこういうことは諦めたほうがいいのかもしれないと思う。日記のことだけを言ってるんじゃない。記録に残す、記憶に残す、保存する、今日生きた痕跡、今日生きた意味、日々の積み重ね、何かをやったという証、何かを考えたという証。もう意思を持たない生物のように生きていったほうがいいのかもしれない。意思、意志、意味、意欲、そんなものは捨てて、条件反射のように生きていったほうがいいのかもしれない。本気でそう思う。もうすべて諦めたら、諦められたら、そのときに真の幸福が得られるんじゃないか。腹が減るから食べて、食いたいときに食いたいものを食いたいだけ食って、寝たくなったら寝て、何も考えずに、意味など考えずに、一切考えることをやめて。

またこの話か。いったい何周目なのか。諦められるだろうか。ただでさえ能のない人間だというのに、せめて選ばなければ。やるべきことを。わかっているはず。そしてそれ以外のものは捨てなければ。中途半端に続けるなんてできない。そんな器用なことができれば悩みはしない。きっぱり捨てなければ。もう粉々に叩き潰して切り刻んで焼き払って思いっきり投げ捨てなければ。それしかないのではと思う。思うのだけど、踏ん切りがつかない。ずっとそう。ある意味これが条件反射なのかもしれない。自分の意思ではどうにもできないのかもしれない。死ねばいいのに。死ねよ。ほんまに。マジで。やるべきことだけをやってみろよ。

死んだほうがいいという結論はとっくに出ているのにいつまでも生にすがりついて死ねずにいるという意味では人生と同じである。生という悪癖。死ぬべきだとはわかっているけど未練が断ち切れない。ある人が、本当は死にたいんじゃないんだ、こんなふうに生きたくないだけなんだ、というようなことを書いていて、ああ、そうだなと思った。じゃあどんなふうだったら生きたいと思うのか。俺にはもうよくわからない。でも、できれば、このまま存在していられるように、何かいい知恵があればいいのだけど。何かいい方法が。

ネットでもリアルでも死んだほうがいいって救いがないよな。最悪やな。ずっと考えているけど答えが出ない。

私にとっての音楽

私が好んで聴く音楽というのは、ほとんどが歌の入っていない(つまり歌詞のついていない)ものである。若い頃からずっとそうだったが、世間で流行っている音楽や周りの人間がよく聴いている音楽というものをまったくといっていいほど聴かずに生きてきた。誰もが知っているようなあの歌手やあのグループやその他いろいろな有名アーティストの曲も私は知らない。テレビや街中で流れているのを耳にしたことはあるのだろうが、能動的に聴いたことは一度もなく、自分の認識としてはまったく知らないということになる。カラオケに行っても歌うことのできる曲は皆無である。というか、私はカラオケというものを断固拒否してきた人間なのであった。

これから私は、私にとっての音楽とは何かということについて書こうと思うのだが、たぶんあまり誰にも共感されないような内容になるであろうと思われる。しかし、そういうことだからこそ書いておく意味があるというものだ。最初に書いたように、私が普段聴いている音楽は歌あるいは歌詞のないものがほとんどである。それは自然のなりゆきであった。私は言葉を聞きたいのではなく、音とリズムが聴きたいのだ。私にとって歌詞というものは音楽の邪魔以外の何ものでもない。


私は音楽に意味を付けたくないし付けられたくもない。私にとって音楽というものはこの現実世界とは関係のない、音だけの世界のもの。音とリズムだけの世界。この日常とはまったく別の場所にある異次元の世界。我々が存在する物質世界とは別の次元で起きている事象なのである。その世界にあるのは音とリズムだけで、目に見えたり言葉で表せるような何かがあるわけではない。

音楽も芸術であって自分の中にある何かを表現するわけだけど、それは悲しい気持ちであるとか美しい風景であるとか、そういった、この現実世界で起きていることを表現するわけではない。ただ自分の中に湧き出てくる音とリズムを表現するだけであり、決して言葉に変換できるようなものではないのだ。私にとってはそれが音楽における表現である。そしてまた、悲しい歌詞を聞いて涙を流すわけでも美しい情景を思い浮かべて感動するわけでもない。ただ音とリズムだけの世界に、私は強く心を惹かれ、魂を揺さぶられるのだ。

世界にはいろんな音楽があって、いろんな人にとっての音楽がある。その中には歌詞のついたものや、歌詞はなくてもストーリーに沿って作られた音楽もたくたんある。宗教的、政治的メッセージが込められた音楽もある。それらすべてが音楽。そして私にとっての音楽も同様に、その広大な音楽の中のひとつである。絶対音楽とか標題音楽とか、そんなことを意識もしないレベルで、ごく自然なこととして、私は意味や言葉の介在しない音楽を求めていた。音とリズムだけの世界。音とリズムだけの、あの異次元の世界に入り込んだときの興奮や快感。そこに意味や言葉を持ってこられると、たちまち現実へ引き戻されてしまう。それはもう私にとっては音楽ではない別のものになってしまう。

私は音とリズムだけの世界を楽しみたい。私は意味や言葉のない音楽を楽しみたい。せめて音楽だけは言葉の支配が及ばない世界であってほしい。言葉で表されるものを理解するのが不得手な私にとって、それだけが唯一自由に楽しむことができるものだと思えるから。