わなびねこ

なんか様子が ヘンです・・・

遺言のようなもの

この文章を書きはじめたのは確か一か月以上前だった。ひさしぶりに頭の中に何かが浮かんできた。次々と浮かび、スラスラとつながる。運転中だった。音楽を消し、思考に集中した。運転に支障がない程度に集中した。頭の中の思考が具体的な形として現れるということが、もう滅多にない。思考といってもたいした内容ではないが、今自分が何を感じているのかを内省することのできる貴重な機会なので書き留めておこうと思った。調子よく次々と思考がつながる。

ただ、それを覚えておけるかが不安だった。さっき考えていたことがさっぱり思い出せないということがしょっちゅうある。自分が何を考えていたかをすっかり忘れてしまう。まったく思い出せない。そういうことが日常茶飯事になってしまった。だから、今浮かんできた思考を最初からおさらいしてみようと思った。でももうひとつ心配があって、それは、今調子よく流れている思考を一旦止めてしまうことが怖かった。さっき浮かんだことを最初から確認している間に、この流れが止まってしまうのではないか。それが怖かった。

最近ではこの日のような状態になれることはまれで、いくら集中しようと思ってもそれがなかなかできない。いくら頑張っても集中モードに入れない。だから、たまに現れる「その時」が来るのを待つしかない。「その時」が来たら流れをなるべく遮らないようにして、なるべく長く続くように気をつけて、その時間を何か有効なことに使いたい。とにかく壊れやすくてとても不安定な状態なので、余計なことを考えたりしていると流れが止まってしまう。だから、覚えておけるか自信はなかったが、最初からおさらいしようなんて思わずに、その流れのまま身をまかせることにした。

家に帰って、パソコンを開いて、書こうと思ったとき、思考はすでに止まっていた。そしてその内容もよく見えないようになっていた。泡がだんだん消えていくように、はっきりした形ではなくなっていた。いくつかのキーワードを拾い上げ、それを書き留めた。そして、それらについて何を考えていたか書いていこうと思った。しかしうまく言葉にならない。せっかくの貴重なものを書き留めておきたいと思い無理やり文字にしてみたが、あのとき頭の中で流れていたものとは違うような気がしてならなかった。目の前に打ち出された文字列を眺めていても何も浮かんでこなかった。それ以上書くことはできなかった。

次の日。もうあの思考はもやもやとした灰色のかたまりのようになっていた。言葉はもう見えない。いつもの錆びついたポンコツ頭に戻ってしまっていた。




何もやる気が起きない。何かしようと思っても取りかかることができない。体が動かないというより頭が動かない。何かやろうとは思うのだがどうしても腰が上がらない。何かをしようと思うだけで脳に強いストレスを感じる。自分の意思に反して脳が拒絶しているように。認知症の初期症状として意欲低下というのが言われるけど、こういうことなんだなというのがよくわかった。やる気がないとかやりたくないというのではなく、やりたい気持ちはあるのに頭が動いてくれない。あれもやりたいこれもやりたいというのがいっぱいあるのに脳が起動してくれない。とにかくスイッチの入れ方がわからない。なんとか少しだけでも、歯車の最初の一回転さえ起こせれば、と思いながら時間だけが過ぎていく。

やっとのことで取りかかれたとしても思うように進まない。頭に負荷をかけ続けていないと動きが止まってしまう。すぐに集中が切れてしまう。油が切れた歯車は力を入れて回し続けないとすぐに止まってしまう。昔のように頭が動いてくれない。時間だってアホみたいにかかる。もうまったくのポンコツ頭になってしまった。

できていたことができなくなるのはつらい。昔は何か特別なことができたというわけではないが、それでもストレスを感じない程度には脳が動いてくれていた。だから、何もすごい能力を与えてくれと言うわけじゃない。あの頃の頭に戻して欲しい。今一番欲しいものはそれだ。

だがそれを言っても仕方がない。受け入れるしかない。だから、昔のようにできなくても、いくら時間がかかっても、集中力が短時間しか持続しなくても、それでもいいからゆっくりでも歯車が回り続けてくれさえすれば文句は言わない。しかしそれも叶わない。何をやっていてもある程度のところで空回りしはじめる。いくらペダルをこいでも進まなくなってしまう。ワーキングメモリの衰えによって脳が一度に扱える量が極端に小さくなってしまい、すぐメモリ不足に陥ってしまう。脳がフリーズして、ディスクが空回りして、それ以上進めなくなってしまう。こっちを押し込めばあっちがあふれ出し、あっちを引っ張り込めば別の物がこぼれてしまう。なんとも言えない不快感が頭の中に充満する。もうこうなったらどこへも行けなくなってしまう。そんな具合で何をやっても最後までやり通せない。やっとの思いで何かに取りかかることができて、昔の何倍も時間をかけながらやってみても、結局途中で断念せざるを得なくなる。そういうことを何度も何度も繰り返し経験し、何かを始めることすら脳は拒絶するようになってしまった。

何もできなくなってしまった。何もせずに時間だけが過ぎていく。毎日毎日無為な時間が過ぎていく。やりたいことがないのではない。やりたいことは山ほどあるが、錆びついてしまったこの脳がそれを許さない。何もやることがない状態を初めて経験した。無為な時間が過ぎていく。これは精神的にキツい。こういう状態になって初めてわかった。

何かやることを見つけなくては、と考えるようになった。自分がそんなことを思うようになるなんて考えもしなかった。趣味のない人が何か趣味を見つけたいなんて言ってるのを見て他人事だと思っていた。別に高尚な趣味を持っていたわけではないが、やることがなくて困るということはなかった。一日三十時間あればいいのにと思っていたぐらいだ。そんな人間が脳の衰えによって今までできていたことができなくなった。やりたいことは山ほどあるのにそれができない。何もすることがない時間を過ごすのは苦痛だった。




何をして過ごそうかと考える日々。やりたいことではなくてやれることをやるしかない。この状態でやれることを。たいしたことが思いつかない。はっきり言ってしょうもないことしかできない。映画を見たりネットをだらだら見たりポーカーのアプリをダウンロードしてやってみたり。そんなことをして時間をつぶす。しかし、そんなふうにして過ごしても何も満たされない。何をしていても本来やりたかったことが気になってまったく集中できない。途中で放置したままのことや、他にもしなければならないことだってたくさんあって、それが気になって仕方がない。映画を見ていても五分としないうちに気が散って停止ボタンを押してしまう。

ポーカーは時間をつぶすのに適していた。現実逃避の手段としてはかなり自分に向いているものだった。ポーカーでは一回のゲームが一分にも満たないということもめずらしくないので、ちょっとした時間があれば手軽に参加することができるし、いつだってやめられる。実際の金を賭けているわけでもないのでそこまで集中しなくてもいいし、とにかく一回一回がサクサク進むので脳に負荷がかからない。それにゲームだといってもやはり勝負事なので、ちびちびとドーパミンが出るので中毒性がある。もともとこういうことが好きだというのもあるだろうが、ポーカーをやっているときは不思議と他のことが気にならずに集中できた。何時間でも没頭できた。

ただそのあとが問題だった。終わったあとの虚しさ。あれはけっこうダメージを食らう。おれはいったい何をやっていたんだと、何時間も何を意味のないことをやっていたんだという激しい自己嫌悪に陥る。それでもうこんな無駄なことはやめようと思うのだが、つい手に取ってやってしまう。いろんな意味で楽なのでそこに逃げてしまう。断続的な快楽物質の供給により報酬系が刺激され、一時的に集中力が増し、現実逃避を助けてくれる。で、ちょっと十分だけと思って始めたつもりが、二時間、三時間とやってしまい、また落ち込むと。そんなことを何回も繰り返して、ある日衝動的にアプリをアンインストールしたらめちゃくちゃ気持ちがすっきりした。これでバカみたいに時間を無駄にしては自己嫌悪というループから抜け出すことができるわ、ざまあみろ、アホンダラ。まあでもポーカーはなかなか面白いゲームだということを知れたのはよかった。いずれまたやる機会があるだろう。

そういうわけでポーカーという良い現実逃避がなくなってしまって、やることといえば結局ネットをだらだらと見ている。ネットなんていうのはだらだらとやってしまうことの最たるもので、それはいかに頭を使っていないかという証拠である。別にちゃんと読まなくてもいいし、興味がなかったら途中で読むのをやめてもいいし、あっちクリックこっちクリックという具合にやっていればいくらでも時間は過ぎていく。なんかやってる気になれるわりに気力も集中力もいらない。ただ昔と比べて文章を読むのがしんどくなった。ちょっと内容が難しかったりするとすぐ投げ出してしまう。昔はまだそういうものも頑張って読もうとしていたが今はもうまったくダメ。いろんなことが理解できないし世間の話題にもついていけない。




だいたい世間で話題になっているもの、みんなが面白いと言っているもの、そういうものを見ても何がいいのかよくわからない。ネットを見ていても面白いと思えるようなものがほとんどない。みんなよくそんなにいろんなものに興味を持てるなと思う。自分の中にはそういう感覚がない。結局みんな人が好きなのかな。みんな他人に興味があるのかな。たぶんそういうことなんだろうな。それに比べて自分のこの他人に対する興味のなさ、世の中に対する興味の持てなさっていうのは少し異常なのかもしれない。

もともと自分は幅広く興味を持ってどんなことでも楽しめるという人間ではなかった。世間で流行っていることには無関心だった。周りの人間がみんなやっていても興味を持てなかった。昔からずっとそうだったけどそれに加え、歳をとっていろんなことについていけなくなってきたというのもあると思う。いろんな変化についていけず、アップデートできず、それで何を見てもピンとこないというか、そんな感じになってしまっている。理由は何であれ実際面白く感じられないのだから、ネットを見ていてもモヤモヤするばかりでしんどくなってくる。

世間一般のあらゆることとズレている。感覚がズレている。いろんな点で、多くの人が持っている感覚が理解できなくてどこにも入っていけない。ついていけない。インターネットには現実とは別の世界があったはずなのにそこでもズレていた。ひと昔前ならいざしらず、今やインターネットという囲いはなくなりリアルに飲み込まれてネットイコール世間となった。自分のようなリアル社会に適応できなかった人間が、世間そのものと化したネットにおいても同じ結果になるのは当然のことだった。結局、世界を理解するための知性や教養が足りていないということなのだろう。

すべてがズレていて、ネットの中で見るものすべてがストレスとなって返ってくる。ネットは世間そのものになったが、昔と違ってすべてが可視化されるようになったぶん、無能者にとっては今のほうが残酷だと言えるかもしれない。以前なら自分の周りしか見えなかったが、今では世間のあらゆる人の言動が目に入ってくるため、自分の感覚がいかにズレているかを知ることになる。そういうことを感じる回数は昔の比ではない。絶望、絶望、また絶望。ネットを覗くたびに精神が削られていく。




あらゆるものがわからない。次々と流れてくるニュースやブログ記事やツイート。その中で話題になっているものをクリックして読んでみても、何が面白いのか理解できない。何か注目すべきことが書かれているはずなのに、自分には見えない。それで、みんなはこれを読んでどういう感想を持ったのだろうと思ってはてブのコメントなどを読んでみたりするのだが、あの上位に並ぶ人気コメントになぜあんなにたくさんのスターがついているのかわからない。コメント自体は何が書かれていてもかまわないが、なぜそんなに共感を呼んでいるのかまったくわからない。スターをつけたりいいねをつけたりする基準というか感覚というか、そういうことがよくわからない。

例えばすでに10000いいねがついているものに、自分がいいねをつけて10001にする意味とは何だろうとか、そういうのもわからない。自分のいいと思ったものにいいねという意思表示をすることは別に普通の行動かもしれないけど、自分の場合は大勢の人がやっていることに「乗る」のを躊躇してしまうところがある。これはちょっと言葉で説明しにくいけど、とっさに一歩下がってしまう感覚がある。大勢の人が一斉に同じことを言っている状況に言いようのない違和感を覚える。気味が悪いというか、怖いとさえ感じることもある。個人か集団かにかかわらず、誰かに対する批判または賞賛のコメントに大勢の人が「乗って」いる場合なんかは特に感じる。皆で示し合わせてやってるわけじゃないとわかってはいても、大勢がどんどん乗っていく様子は自分の目には異様に映る。自分と同じ意見をすでに何人かが述べていてある程度の賛同者がいるのが確認できれば、そこに自分の声を上乗せする必要性を感じない。賛成でも反対でも一定以上の勢いがつくことに対して抵抗感がある。

ひとつには、自分が世間の中心から常に外れている感覚があるからだと思う。常に少数派であり軽視される側であり、何かきっかけさえあれば攻撃されるかもしれないという不安が頭のどこかにあるからではないかと思う。特に批判的な意見に大勢の人が乗っている様子を見ると他人事とは思えない。それともうひとつ、これは批判も賞賛も含めたどんな意見でも共通することとして、みんなが同時に同じことを言っている状態というのが何か不自然に感じられる。本当にみんなそう思っているのかという疑念を持ってしまうというか、何か大きな流れに乗らされているのではないかと思ってしまう。その場の雰囲気というか空気が伝播し感染してゾンビになってしまっているような気持ち悪さがある。みんながみんな同じことを思うなんてあり得ないという感覚がある。これは自分がズレている人間だから思うことなのだろうか。とにかくネットの雰囲気、世間の空気、多くの人が持っている感覚というものが理解できなくなっている。

世間の感覚とズレていても別に気にする必要はないのかもしれない。すべてが面白いと思えなくてもいいし、わからないものを無理してわかろうとしなくてもいいのかもしれない。自分が楽しめるものだけ見ていたほうがハッピーでいられる。そうできればいいのかもしれないが、最近はそれも怪しくなってきた。これは自分でも悲しくなってくるのだが、自分が好んで見ているものでも理解できていないように思うことがしばしばある。いつも読んでいるブログなどでもそういうことがある。たとえば新しい記事が更新されて、いつも通り普通に読んで、普通に読み終わって、それでしばらくするとホッテントリとかで流れてきて、なんかたくさんブックマークがついていて、「え? これ、おれ読んだよな」と思いつつもう一度読んでみるのだが、なんでそんなにたくさんの人が集まっているのかわからない、みたいなことがたびたびある。あと、自分がフォローしてる人がつけたいいねなんかもどこがいいねなのかよくわからなかったりする。普通、自分が好む人や物というのは共通点があるはずで、どこかでたまたまそれらがつながっているのを見たときに、ああ、自分はちゃんと理解できていたんだな、ということを再確認し、ひそかに喜びを感じるものではないのか。つまり自分が好んで自分が選んでその人の書くものを読んでいたはずなのに、何もわかっていなかったということである。自分が好んで読んでるものでさえ何も理解できていないのかと思って自分に対してガックリくる。

もうエコーチェンバーでもなんでもいいから、自分にとって快適なコンテンツだけで構成されるインターネットがほしい。そんなもの自分で選んで見てればいいだけなのだが、今書いたようにそれが理解できないのだから何を選べばいいのかわからない。フォローすべきなのは誰なのかが自分でもわからない。どうやって見つければいいのか本気でわからない。でもそんなことは無理なのかもしれない。結局自分は何を見ても楽しむことなどできない人間なのか。リアルの世界でもネットの中でも自分の居場所などないのか。

そうはいっても今の時代、インターネットをやめるというのは現実的に不可能である。ひと昔前なら一時的にネット断ちするとか、そういうことができたかもしれない。でも今では生活に必要不可欠なものとなり、ネットに触れずに過ごすことは難しい。必要な情報だってネットから得るわけだから、その中でつい隣に並んでいるものをクリックしてしまい、自分の居場所のなさを再確認するだけの無駄な時間が過ぎていく。毎日それの繰り返し。でもどこかでそういうの、やめなければ、と思いながら、今の自分にはこんなことぐらいしかやれることがないので今日も無駄なクリックを繰り返す。




そしてたぶん、ブログを書くこともそういうことのひとつだったのかもしれない。やることがないからブログを書くことで何かをした気になっていたというのはあるかもしれない。その場しのぎの現実逃避としてやっていたというのは確かにあった。ブログなんて自分に向いているものではなかったのに。公開の場で訴えたいこととかみんなに見てもらいたいこととか表現したいこととかそんなものは全然ないのにパソコンを前にするとついついブログの画面を開いてしょうもないことを書いてしまっていた。そういう自覚はあったから自分でも嫌だった。くだらんもん書いとんなっていうのがあった。書きたいことがあってそれを頑張って書いて自分なりに言いたいことが書けたとか、そういうのだったらそれなりに充実感もあったかもしれない。でも全然そうじゃなかった。よくこのブログについてネガティブなことを書いてたけど、そういう気持ちを持ちながらやっていたからというのがある。

最初のうちはもうちょっとポジティブな気持ちでやっていたと思う。皆がやっているように自分もできるんじゃないかと思っていた。そんなに難しくは考えていなかった。何か希望のようなものさえ持っていたかもしれない。しかし、やっていくうちに何か違うなと感じるようになった。特に具体的な理想のブログ像があったわけではないが、なんとなく抱いていたイメージとは違うような気がしてきた。なんか思ってたのと違うぞ、と。それはわりと早い段階で感じていたと思う。そういう違和感が積み重なっていき、あるとき確信した。これは自分の世界ではないと。みんなのように上手くはやれないし楽しめるものじゃないと。自分には向いていないし必要なものがいろいろと足りない。でもやっぱり、なんかこう、自分なりのやり方みたいなものがあるんじゃないかと、やっていくうちに見つかるんじゃないかと思いながら続けていた。

自分は文章を書くことが好きなわけでもなかったし得意でもなかった。人前で披露するような話もなかったし何か立派な考えを持っているわけでもなかった。ただみんながやってるのを見てなんとなく自分もやってみたくなっただけ。だから公開の場で何かを書く必然性はまったくなかった。みんなが普通にやっているので深く考えずにやっていたが次第に違和感が漂ってくる。これ誰に向かって書いてんねやろ、これ何のためにやってんねやろ、という疑問がわき上がってくる。でもそれを言ってしまうと何も書けなくなってしまうので考えないようにしていた。そこを真剣に考えてしまうといろいろと都合が悪い気がした。これは人に見せるために書いてるんじゃないとか、これは自分のために書いてるんやとか、自分に言い聞かせてごまかしながらやっていた。

ただ、そうやって自分自身をごまかしたり自分に嘘をついて無理やり前向きにやっていくみたいなのが昔からすごく苦手で、これは自分のために書いているんだ、みたいなしらこい理屈ではごまかせるわけがないし、無理やりそこを見ないようにしてやっていただけ。自分のために書いているなんていうのははっきりいって自己欺瞞であり、インターネットに公開している以上そうではないことは自分でも薄々気づいている。それを無理やり気づいてないふりをしてやっていたからすごい気持ち悪かった。「自分のためなんやったらネットに公開する必要ないやん」、「ノートとかパソコンに書いといたらいいやん」という内なる声が常に聞こえていた。

自分のために書いているというのがまったくの嘘だったということではなくて、というか最初の頃はわりと純粋に自分のための記録として書いていた。確か最初は非公開で書いていて、体調のことや日々の生活の中で思ったことをメモしておくなど、正味自分のための記録として書いていた。公開設定に変えてからもしばらくはそんな感覚で書いていたと思う。でもそれまでゼロだったアクセス数やらスターやらが目に入るようになると、やはり誰かに見られているということを意識しないわけにはいかないし、それまでのように100%自分用のメモというわけにはいかなくなった。ある程度「ブログ的」にならざるを得なかった。「ブログ的」というのは、要するに読む人を意識した文章、他人に向けた文章という意味で、もともと自分が書いていた内容からするとどうしても違和感があった。誰に向かって書いとんねんと。考えないようにして意識しないようにしてあくまでも自分のために書いているだと言い聞かせてやっていたけど、やっぱりふとしたときに自分自身にツッコミが入る。自分のために書くんやったら、なんでわざわざこんな、人に読まれるような場所で、書いとんねん、と。これはもういつまでたっても慣れなかった。違和感がずっと消えなかった。誰に向かって書いてんの? これいったい何のために公開してんの?

ブログを書くことがすべて無意味だったとは思わないけど、「自分のための記録」以外のことをしようとしてストレスを感じるようになったことが余計だった。やっぱり人に見られると思うと気にしなければいけないことが多く、あらゆる場面でキーボードを打つ手が止まってしまう。書くことに慣れていない人間にとってそれは負担が大きかった。やっぱり非公開のままやるべきだった。それならシンプルに自分のためということで悩むこともなかったはず。たとえカスみたいなPVであっても公開の場で何かを書けるような器じゃなかった。最低限人に見られてもいいように言葉を選び内容を整えるだけでも文章を書き慣れていない者にとっては想像以上に労力を要することだった。

それにしても思うようにいかなかったというか、ずっとモヤモヤしたものを抱えながらやっていた。失望の連続だった。いくら書いても思うように書けないし、人に興味を持ってもらえるようなことなんか書けないし、自分に対して失望してばかりだった。まあでもそれはいろいろやってみて試してみた結果わかったことでもあるし仕方がないかなとも思う。




でもなぜそこまでズルズルやってしまったんだろうか、と思う。不得意で向いてなくてうまく書けなくてストレスを感じながらやってて、それならすぐにやめていてもいいようなものなのになぜそうしなかったのか。なんでここまでズルズル断ち切れなかったのかって考えると、やっぱりこんな自分でも、人に話を聞いてもらいたいとか、人と交わりたいとか関わりたいとか、そういう気持ちがあったということなのかなと。

関わりたいというとちょっと違うか。コミュニケーションしたり人と接したりするのはすごい苦手だし、そういうのがずっと嫌いだった。だから会話したいとか友達になりたいとかそういうのではない。そういう直接的な濃い交わりを求めていたわけではない。そうではないのだけど、でも人のいるところに入っていって自分の存在を誰かに認識してもらい、そこでは自分の存在が許されていると感じられること、それを求めていたように思う。インターネットのすみっこのほうでいいから、ここにいてもいいんだって思えるような自分の居場所ができたとしたら、それ以上のことは求めていなかったと思う。

ほとんど人と関わらずに生きてきて、それでいいやと思っていた。そういう欲求が自分の中にあるとは思いもしなかったけど、インターネットの中に希望の光みたいなものを見て、心の底で眠っていたものが出てきてしまったのかもしれない。そして多少なりともアクセスがあったりスターがついたりしてそれまでになかった感覚を味わい、それがちょっとした喜びとなったのかもしれない。確かにそういうのはうれしいものだけど、自分の中でそんなに大きかったのかというと、それは自分でもよくわからない。ちょっとしたつながりができ、自分の存在を知ってもらって何かが満たされたのか。承認欲求という言葉があるけど結局それだったのか。それだとすごくありきたりの話。結局こうやって公開の場で書いているのは、やっぱり誰かに見てほしい聞いてほしいと思う気持ちがあったからなのかなと。自分に限ってそんな欲求があるとは思ってもいなかったから意外だった。自分にも普通の感覚があったらしい。

実際の生活の中では誰とも関わりがなくて人と話したり誰かに承認されたりということはほぼゼロであり、でもそれは自分にとっては全然普通のことでずっとそうやって生きてきたから慣れてるはずなのに、なんやろ、やっぱりインターネットにはなんかそういうの、あるんちゃうんかって期待してしまったような気がする。インターネットの最初の頃とかは全然知らないしそのあとも詳しくは知らないけど、実際十数年前のネットの雰囲気っていうのはなんかまだそういうものがあったように思う。自分みたいな人間でも、そこにいていいんじゃないかと思わせる雰囲気があった。今のように皆がインターネットを持ち歩いて普通にSNSを利用するような状況じゃなかった。まだあの頃はリアル社会とネットでは雰囲気が違い、少し居心地の良さを感じた。でもそれはインターネットが発展、普及していく過程での特殊な状況だっただけで、今はもうあの頃とは違う。インターネットはインフラとなりネットとリアルは一体となった。なのにいつまでもあの頃のイメージを引きずったままズルズル続けてしまった。社会でうまくやれずに世間から外れて生きてきた人間が、今のこのリアルの社会と一体化したネットに飛び込んでみたところで何もできるわけがない。むしろ今まで社会での諸々を避けてきたような、そういうことにまったく不慣れな人間にとっては戸惑うことばかりだった。

歳をとり頭も体も衰えて、何もできなくなって自信という自信が失われ、自分自身というものがなくなってしまったとき、そこにすがるしかなかったのかもしれない。自分の中の軸みたいなものがなくなってしまい、自分の外にそれを求めるしかなかったのだと思う。

現実の世界では、自分の周りに関わりを持ちたいと思えるような対象はいなかった。それは自ら背を向けていたということもあるにせよ、そういうことを思ったことはなかったし出会いもなかった。そういう意味であまり未練はなかった。でもネットにはそれまでの人生で出会わなかったような人たちがいっぱいいたし、ここではなんか違うんちゃうかっていうのは感じていたと思う。そう感じたときに心の奥底にしまってあった感情のふたが開いたんだと思う。自分でも気づかないうちに。自分はそんなんどうでもええと思って生きてきたつもりだったけど、一度出てきてしまったその思いがなかなか断ち切れなかったのかなと、今思う。




ブログを書くのは何年続くかわからない長い遺言のようなものだと書いていた人がいて、自分もそういう感覚はあるかもしれないと思った。遺言といってももうすぐ死ぬからというわけじゃなくて、今のところ自ら死ぬ予定もないし余命宣告されたわけでもないけど、そういう感覚はあるなと思った。まあ遺言っていうとちょっとニュアンスが違うかもしれない。ただ今の自分の中にあるこの感覚っていうのは、なんていうか、これは若いときにはなかった感覚で、そういう意味での「遺言のようなもの」っていうのはわかる気がした。全然説明になってないな。

自分は若い頃には日記も書かなかったし写真を撮って残すということもほとんどしなかった。撮った写真だって平気で捨てるし、何かを残しておくという意識が希薄だった。それは覚えておけるから必要がなかったというのもあるけど、ただあの頃は将来とか人生の終わりとか全然考えてないから、記録して残しておこうという発想自体がなかった。

でも最近は、やはり記憶の問題が一番大きいけど、自分を構成しているものが少しずつこぼれ落ちていくような、自分という輪郭がぼやけていって徐々に消えていくような感覚があって、文章や写真という形として残すことで安心を得ようとしているような気がする。だから、今思っていることも過去の記憶も消えてしまう前にコピーしておかないと、みたいな感覚がある。ブログでもそういう感じがあって、特に最近、なんか書いとかなっていうのがあって、そういうちょっとした強迫観念のようなものに動かされていたところもあるように思う。

書くことがライフワークだというような人がネットにはたくさんいるけど、自分はまったくそうではない。たぶんもし幸せな毎日を送っていて満ち足りた状態だったらブログなんて書いていないと思う。ただ、社会に適応できなくて世間にうまく入れなくて、劣等感をかかえて生きてきた人間だから、やっぱりそこの悔しさみたいなものはそれなりにあって、まあなんていうんやろ、おとなしく沈黙したまま死んでいくのも癪だから、何かちょっとだけでも言っておきたいという気持ちはあったかもしれない。ささやかな抵抗みたいなものが。具体的に誰に見てほしいというわけじゃなくて、世間という漠然としたものに対して投げておきたかったというか。おれっていう人間がおったでっていうのを。そんなもの投げたところでどこにも届きはしないんだけど。まあそういう意味での遺言っていうのは、感覚としてあった気はする。




そんなこんなでブログを続けてきたけど、結局自分なりのやり方は見つけられなかった。文章力やら何やら能力的なことももちろんあるけど自分の性分としても向いてなかった。もともと自分の話を人に向けてすることが好きではなかった。そういうことが苦手だった。これはあくまでも自分の感覚だが、はっきり言ってそういうの、うっとうしいやろっていう感覚がある。面白い話とかためになる話とか何でもいいけど、人を楽しませることができるような話ができるんだったら全然いい。聞くほうだって退屈しないだろう。とにかく人を惹きつけるようなものが書けるんだったらこんな自分だって楽しんで書けたと思う。でも自分には何もなかった。おれの話なんか面白くないし、おれの人生には特別なことなんか起こらないし、普段のおれの頭の中には何か素晴らしい考えがあるわけでもないし、とにかく自分の話を人にするということはやるべきでないと思って生きてきた。そういうことに昔から抵抗があった。そういう行為って、なんていうのか、うっとうしいやろ、聞かされるほうは、おもんない話を。おもんないやつの話を。こういう感覚みんなないのかな。ネットを見てるとあまり見かけないど。

いや、そうでもないか。十年とか十五年とか前の、ブログがちょっとブームになったりしていろんな人が書くようになった頃、「自分語りキモい」っていう言葉をちょくちょく目にしたように思う。だからそういうふうに思う人はいないわけじゃないはず。でも最近は見かけなくなった。今は誰もがインターネット上でなにかしら言葉を発するようになり、そういう感覚は失われたのだろうか。ネットで話題になっているものを見てみても、そこに連なっているコメントも含めてそういう雰囲気は感じられない。でも自分は昔からそういう感覚がある。今のネットを見ていて、ちょっとくらいは「自分語りキモい」という感覚を持つべきなんじゃないのかと感じることもある。そういうのを持ちつつも、でも言いたいことがある、みんなに聞いてもらいたい、だからそこはあまり全開にせず様子を見ながら控えめに出して行く、みたいな。聞かれてもいないのに自分のことを語り出すのってやっぱり基本的にキモい行為なわけで、そういう自覚を持ちつつちょっと遠慮気味に書くという、そういう奥ゆかしさみたいなものが必要なんじゃないのかと。それが今は皆、そういう葛藤を微塵も見せずに自分語り全開で放出している。ネットに流れてくるのは大半がそういうものだ。今はサブいとか無粋とか、そういう概念がないかのように皆平気な顔をしている。自慢、アピール、自己顕示、上手いこと言うたった、おもろいこと思いついたった、あいつはバカでこいつもバカで自分だけが賢い、わかりきった正論言ってドヤ顔、自分に酔っている、自分すごい、自画自賛、等々。どこを見てもそういう言葉であふれかえっておりうんざりしてしまう。

さらに言えば、そういうものに対して数多くのいいねやRTがついていて、一部の発言者だけでなく全体の雰囲気として多くの人たちがなんとも思っていないように見える。自己顕示欲というのは大なり小なり誰もが持っているものだとは思うけど、それを隠そうともせずに丸出しにした発言に対していいねって言える感覚が理解できない。ああいうのに対する嫌悪感など誰も持ち合わせていないのだろうか。みんなああいうのをサブいと思わないのかな。隠したりせずにむき出しだからこそ「よくぞ私の思ってることを代弁してくれた」ってなるのかな。トランプが大統領になる時代だもんな。

皆インターネットでの活動も長くなり、麻痺してしまってそういうことを感じなくなったのか。あるいは多くの人には最初からそんなものはないのか。いずれにせよ世間とのそういった感覚のずれは、たぶんもうどうしようもないと思う。自分は変われない。そういう価値観というか感覚が抜けなくて、世間の常識がどんどん変わっていくことに適応できていないだけかもしれない。自分みたいな人間はこういうのやるべきではないんだろうな。ブログとかTwitterとか。根本的に向いてなさすぎる。「ツイッターってすごく疲れたときにわざわざアプリ立ち上げて『疲れた』って書き込むらしいよ、頭おかしいよね」っていうのをどこかで読んだことがあるけど、正直言うと自分の中にもこの感覚がある。そんなやつはSNSなんかすんなボケって声が聞こえてきそうだけど、ほんまその通りやと思う。でもな、やってみたかってん。見よう見まねでやってみたけど、どうにもこうにも気色悪くて、自分にとってはキビしかった。みんながやってるみたいにやってみたかったけど。




昔から自分の話を人前ですることに対しては抵抗があった。自分も他人のしょうもない話を聞かされるのが嫌だったから。面白いことを言われへんねやったら黙っとこうやっていう感覚がある。他人に対しても自分に対しても。ブログに関しても同じような感覚があった。つまりブログを書いていて、自分自身サブいと思う気持ちがずっとあった。

面白いことを言われへんねやったら黙っといたほうがましやと、いつからかそういうふうに思うようになった。ずっとそうやって生きてきて、それが自分にとっては普通のことだった。自分は面白いことを言ったり人を笑わせたりすることが得意な人間ではない。特に面白くもない人間である。そうは言うものの、自分だって仮にも関西で生まれ育った人間であり、笑いというものに触れて生きてきたわけで、一応そういう感性というものはある程度は体に染みついているはず。自分だけじゃなくてみんな子供の頃からそうだったと思う。例えば小学生の頃なんかを思い返すと、クラスに一人か二人すごいまじめな優等生の子っていたと思うけど、そういうやつでも「まぁ通信教育やけどな」ぐらいのことは言ったと思う。ちゃんと正しいタイミングで言える程度には皆身についていた。ただ関西だからといって面白いやつがたくさんいるわけじゃないので、面白くもないやつがウケを狙って何か言おうとするという事象が頻発することになり、それがしんどかった。しょうもない話を聞かされるのが苦痛だった。

日常的にそういう経験をする中で、人前でしょうもない話をすることは最悪だという価値観が育っていった。もしかしたら関西とかいうのは関係ないかもしれない。いずれにしても自分の中にはサブいのは最悪であるという感覚が定着した。だから面白いことを言えない人間として、余計なことをしゃべらないというスタンスで生きてきた。自分のことを人前で話したりはせずに生きてきた。そういうことをするやつのほとんどが面白くなかったから。サブかったから。自分はそういうサブいことはしたくなかったし、他人にサブい思いをさせたくなかった。

だからこうやってブログで自分のことについて書いているのが気持ち悪くて仕方がない。面白いことが書けるんだったらいいと思う。今言っているのはinterestingの意味での面白い、つまり興味深いということであって、笑えるものであってもそうでなくても、ただの日記であっても個人的なメモであっても、とにかく人の興味を引くようなものが書ければそんなふうに思うことはなかっただろう。また、どんな内容であっても100%思うように書けて満足できていたら気にせずに書けたかもしれない。しかし、これまでこのブログに書いてきたようなしょうもない内容ではサブくて仕方がない。「面白いことが書かれへんねやったら黙っとけや」という言葉が自分自身に突き刺さる。




ただ、自分のことについて他人に話すということをずっとしてこなかったから、ブログを書くという行為は新鮮ではあった。他人に話さないだけじゃなく日記などを書く習慣もなかったし、そもそも自分の考えていることや自分自身についてのこともよくわかっていなかった。だからそういう意味ではブログを書くことに意義を感じないわけではなかった。でも自分の書くことは人前で披露するような話でもないし、公開の場で書いていることに対してはずっと気持ち悪さがあった。キショい、サブい、おもんない。なんかもうすごい気持ち悪かった。自分で自分が気持ち悪かった。誰に向かって書いとんねん、こんなしょうもない話、みたいなのがずっとあった。

いや、ブログなんて別に面白いことを書かなくてもいいのだと思う。何か特別なことを書かなければならないというわけではない。面白くもない人間の面白くもない日常を下手くそな文章で書いても全然いいんだと思う。それで自分が満足できるなら。でも自分はそう思えなかった。個人的なメモや日記をプライベートな場所に書いているだけだったらかまわないけど、インターネットに公開していることについては意味を感じられなかった。自分自身納得できる説明が見つけられなかった。公開するということは少なからず誰かに読まれることを期待しているわけで、それについてはどんな理屈を並べても否定することはできない。だから自分自身がサブかった。これを公開して誰かに読んでもらう? これを? このしょうもない下手くそな文章を? それは今までの人生で自分が忌み嫌ってきたことそのものだった。いくらみんながやっていることだといっても、それを正当化することはできなかった。

いろんなブログを読んでいると、例えば平凡な日々の日記であっても、特に読者を意識したようなところもなく淡々と書いていて、自然でいい感じだなと思える文章がある。自分のブログもそういうふうになれればよかったと思う。そんなブログにしたかった。自然な感じで自分のことを書けたら、サブいとかキモいとか、そんなことを感じずにやれたかもしれない。そんな文章が書けるようになりたかった。ずっと他人のブログを読んできたしこれからも読んでいくと思う。自分に関しては向いていなかったということ。自然に書ける人がうらやましい。頭の中のものがスムーズに文字に変換されカタカタと指を動かすと整った文章が打ち出される。そんな人にとってはブログはすごくいいものだと思う。そういう人たちのブログを見てきて、いいなと思って憧れて、そんなふうにやってみたかったが自分には無理だった。




つまらない話しかできないぐらいなら黙っていようと肝に銘じて生きてきて、それで自分自身困ることはなかった。誰かに自分の話を聞いてほしいとも思わなかったし、話し相手がいなくてさびしいと感じることもなかった。それが当たり前で自分にとっては普通のことだったし、そういう欲求を無理に押さえ込んでいたわけでもなかった。自分は自分で好きなように生きていたから他人からの承認は必要としていなかったのだと思う。やることはいくらでもあったし、誰に気を遣うこともなく自分の好きなようにやってきて、特に不満はなかった。

それが頭も体も衰えてきてそれまでのようにできなくなったとき、インターネットの中に、あるいはブログを書く行為の中に、自分の存在意義を求めようとした。そんなことでもしていないと毎日意味のない時間が過ぎていくことに耐えられなかった。ブログやSNSには自分の存在価値だと錯覚させるような仕掛けがいろいろとあるが、それは幻想にすぎない。そんなものは自分の価値でもなんでもなかった。そんなことはわかっていた。でも現実の世界での現実の自分はポンコツで何もできず存在する価値すらなくて、どこかへ逃げ込むしかなかった。そこでは自分の存在価値を感じられるのではないかという幻想をなかなか捨てられなかった。しかしそんなまやかしの承認でさえも思ったように得られない。自分で自分が惨めに思えた。

以前のように自分のやりたいことができて、それで満足できていれば、おそらくブログは必要なかっただろう。だからまた、ネットやブログやポーカーや、そんなことの他にやることが見つかればいいと思う。夢中になれて打ち込むことができて、それでブログなんか書かないようになればいいと思っている。本来、自分としては、ブログを書かなくてよい状態が理想と言える。だから今ブログを書く以外のことを見つけたいと思っている。




ブログやネットで無為な時間を過ごす日々。ずっとこんなことを繰り返して、それで、さすがにこれ、生きてる意味ないんちゃう、と思うようになった。今のこの状態を、毎日本当に意味のない生活を続けていて、これは死んだほうがましやろと。人生の意味とか目的とか、そういうことを信じているわけではない。そういうものはないというのが自分の考えである。でも毎日毎日生活していく中で、意味というか生きがいというか目標というか、そういうものを求めてしまうのが人間というものであり、何もない日々が続くのは耐えられないということも実感している。

そして、厳しいかもしれないが、結局自分のやりたいことをやるしか充実感を得られないというところに戻ってくる。このポンコツ頭では厳しいかもしれんけど、やりたいことをやるしかないと。

他人のブログを読んで、他人のツイートを読んで、他人のコメントを読んで、ストレスを感じ、劣等感を抱き、絶望感を味わい、他人や世間との齟齬に苦しみ、おのれの無能っぷりに失望し、この世界への入れなさ、世界からの相手にされなさ、そんなことを嫌というほど味わい、そのたびにおのれの異物感を突きつけられて存在価値のなさを痛感する。でも、もういいんじゃないのか。もうそういったものに背を向けて、このポンコツの自分だけ見て生きていくべきじゃないのか。もうそれしかないんじゃないのか。

ネットを見て絶望し、ブログを書いて失望し、そんなことを繰り返すのは、もうええやろと。自分には無理なのだから。すべてにおいてついていけなくて、世間の感覚とズレていて、何もかもが理解できないのだから。だったらもう、自分のことだけを考えて、自分のことだけを見て、そうやって生きていくしかないやろと。頭が衰えて何も思うようにできなくなってしまったけど、それでも自分の頭で生きていくしかないんだから、なんとかこの頭と体で、少しでも楽しんで生きていける道を見つけていくしかないやろと。そんなことを思う。




他人の予想、他人の印を気にして馬券を買うのをやめなければ。おれがいくら無能でも、モウロクしていても、自分の買う馬券ぐらい自分の頭で決めなければ。昔は記者の印が載っていない新聞がほしいと思っていたものだ。あんな印は邪魔でしかないと思っていた。なのに今は他人の言うことを気にして世間の顔色をうかがって、自分というものがまったくなくなってしまった。おれがいくらポンコツになっても、どれだけ無能でも、もうこの先長くないんやから自分でどうにかしようやと。もうええやんけ。どうなったって。

こないだの白毛馬が勝ったあのレース、五番人気と十二番人気の二頭軸で三連複を買って一、二、四着。惜しかった。外れたけど自分の予想で買って納得だった。あと半馬身だったから直線では声出たけど。でも、こういうことやな、と思った。あのとき自分の中で少し変化があったような気がする。翌日、シラユキヒメ系の別の馬で勝負にいって、獲った。他に人気馬がいたから一瞬自信が揺らいだけど、あの馬のデビュー戦は強烈なインパクトだった。自分の目にはそう映った。絶対こっちを頭で買いたいと思った。外れたっていいと思って一着固定の馬単三連単以外は買わなかった。展開は思っていたのと違ったが結果はドンピシャだった。自分を信じてよかった。前日の気づきのようなものをうまく実践できたという感触があった。ただ十分後に行われたもう一つの重賞は迷った末にケンしたが予想通りに来てしまい悶絶。東西の重賞が両方ともド本線で決まることなんてあるのかよ。そんな経験はあまり記憶にない。こういうところで弱気になってしまうところがまだまだである。おれの幸福は十分しか続かないのかと思った。まあひとつ獲れただけでも上出来か。

人生を競馬でたとえてみただけなのに、いつの間にかただの競馬話になってしまった。比喩の話に戻ろう。つまりもっと比喩的に言うと、もう自分が走って自分の単勝馬券を買うぐらいでいいんじゃないかということ。そんなもの誰も買っていないからオッズは999.9と表示されているはずだ。この先の長くない人生、自分の単勝を握りしめて生きていけばいいじゃないか。昔は穴場ごとに売る馬券が決まっていたらしいが、おれの単勝を売っている窓口には誰も並んでいない。しかし閉め切り間際の今、他の列に移動することはもうできない。選択肢はひとつしかない。紙くずになることは目に見えているが、何も買わずにレースを見るよりそんなものでも馬券を持っていたほうがちょっとは楽しめるんじゃないのか。

今さら何かの競争に参加できるわけじゃないしするつもりもない。もし出たとしてもどうにもならないだろう。だから自分で走って自分の馬券を買うなんていうのは馬鹿げた行為かもしれない。でもそういうことじゃなくて、自分に賭けるっていうのは別にカッコつけて言ってるわけじゃなくて、つまりなんていうか、他人ばかり見て世間ばかり見て絶望を繰り返すのはやめて、自分と向き合って自分だけを見てやっていこうっていうこと。もうそうするしかないやろと。これからは自分の単勝馬券を握りしめて生きていくと。生きていくというか死んでいくというか。そんなもん買っても当たる可能性なんかゼロやねんけど、それでも自分はこの頭と体でやっていくしかないねんから、無様で惨めなありのままの自分を受け入れて生きていこうやと。馬券が当たるとか外れるとかそんなことはどうでもええねん。結局自分しかおれへんねんから。

もっとひどいことになっていくと思う。今よりも世間について行けなくなって、周回遅れになって、なんにもわかれへん、なんにもでけへん、というふうに。でも、それは仕方がないと。おれはおれとして生きていくしかないねんから。その中でも、楽しみとか、やりがいとか、ちょっとした小さい目標とかでも持てたら、少しは意味があるかもしれない。今は具体的なことがないから漠然としたことしか言えないけど、そんな感じのことを思った。

今これを書きながら思うことは、これまでずっと変えられなかったことを、今日何かを決意した気になったところでそう簡単に変えられるものではないということ。簡単なことではない。若い人なら柔軟に変化できるかもしれないが、この歳ではあらゆることが凝り固まっている。すべてのパーツが固着してしまっている。思考の回路だって決まった流れが深く刻み込まれていて今や半自動のような状態。ここから抜け出すのは生やさしいものではないというのは身に染みてわかっている。いやというほど思い知らされた。でもこんな毎日を繰り返して、このまま死んでいくのはさすがに耐えられない。今の自分にはまったく何もないといっても、まだ命はあって、長くはないが短くもない時間を生きていかなければならない。その時間を何かに賭けるとしたら、篠沢教授に全部賭けるよりは、自分の単勝に突っ込んだほうがましだろう。




この文章を書きはじめたのは一か月以上も前であり、そのときの気持ちはもう忘れかけている。いや、すっかり忘れてしまったといっていい。物忘れというのは、人の名前や用事を忘れるだけでなく、気持ちや感情をも思い出せなくなってしまう。あの日、めずらしく思考が流れて、やる気のようなものがわき上がり、何か決意めいたことを思ったのかもしれないが、今はその痕跡すら残っていない。この文章だけが手がかりである。

今日もまた、いつものポンコツ頭で無為な日々を過ごしている。でもまたいつか、「その時」がやってくるはずだ。今はただ、「その時」が訪れるのを待っている。

もやもや

最近ずっと心の内にモヤモヤしたものがあり、それを文字にして吐き出したいんだけど、それが何なのかがわからなくて、書こうとしても書けなくて、しかたがないからそのときに思いついたことを適当に書いて、それでそのときは満足した気になるんだけど、本当に書きたいことは何ひとつ書けてないのでまたモヤモヤしてくる。そんな感じで、本当に書きたいことが何かもわからないのに、何かを書かずにはいられなくて、毎日毎日どうでもいいようなことを書いてしまっている。

今日見かけたんだけど、ジジイがダジャレを言うのはウケ狙いじゃなくて単に死ぬときに後悔したくないだけなんだっていうのを見て、ああ、自分もこういう感覚があるなって思った。誰にも求められていないのにしょーもないことをせっせと書いてるのはそんな感じがある。あれもこれも書いておかなければ、みたいな感覚がある。死んだ後に文字として残したいとかそんなんじゃなくて、思いついたこと、思い出したことを書いていって、ひとつ片付いた、これも片付いた、みたいな感じで、満足するというか安心するというか、なんやろなこれ。

若い頃って時間は無限にあるみたいな感覚で生きていて、そんなこと意識もしなかったけど、今は、この先もう長くはないと感じるようになってきて、今のうちにすべて書き出しておきたいと思っているのか、自分でもよくわからないけど、とにかくそんな感じの焦りみたいなものがあって、最近は何をやっていても、すぐそういう思考が浮かんでくる。

何か具体的なものがあるわけじゃないようながするし、たとえ掴めたとしても、おそらく実態はなくて、なんていうか、抽象的な観念のようなものかもしれない。でも決して空っぽっていうことじゃなくて、いろんな抽象的なことが渦巻いていて、そこには言葉にはならないような、いろんな思いというか、とにかく何かはあるように思うんだけど、いつまで待っても見えるようなものではなさそうに思えてきた。

そういうわけで、こんなことを続けていてもきりがないというか、何か具体的なものがあるわけでもないので、いつまでたっても満足することはないように思う。いつまでもモヤモヤに取りつかれたままで、そういう思考の中をグルグル回り続けるだけで終わりがないように思うので、いいかげんここらへんで強制的に断ち切って、その思考の外へ退避するべきかもしれない。そうやってしばらく距離を置いていれば、モヤモヤした観念のようなものも消えていくのではないか。

さらば、俺のラスベガス

いろんなテーマのホテルがあって、いろんなアトラクションがあって、しかも無料で楽しめるものもいっぱいあって、かつては危険で怖いイメージだったがアメリカで最も安全な街とも言われるほどになり、ギャンブルだけではなく家族連れでもカップルでも楽しめるという、あのラスベガスの雰囲気が好きだった。ばくち好きの俺らしくないことを書いているが、ラスベガスにはそんな夢の世界であってほしかった。これから書くのはずいぶん昔のあやふやな記憶に基づいた個人的なメモ書きである。

ベネチア

イタリアのベネチアをテーマにしたホテル。かつてこの場所には「サンズ」というホテルがあった。ニコラス・ケイジ主演の映画『コン・エアー』のラストで飛行機が突っ込んでいくホテルがサンズである。1階のロビーからカジノへ続く黄金に光り輝く回廊はいかにもラスベガスらしい派手さがあってよかった。それを見てこのホテルに泊まろうと思ったような気がする。2階には「グランド・キャナル・ショップス」というショッピングモールがあり、ベネチアの街並みを再現している。サンマルコ広場やリアルト橋などもある。ゴンドラが運河を行き交いゴンドリエーレ(漕ぎ手)がサンタルチアを熱唱している。恥ずかしくて乗れたものではない。

このホテルの客室は「全室スイート」という売りだったように記憶している。といっても当然本当のスイートなわけはない。でもベッドのあるエリアとソファーやテレビのあるエリアが柵で仕切られていたり2段ほどの階段があったりしてなんとか二部屋感を出していたので、ビジネスホテルのような殺風景な感じではなかった。ここに5泊だか6泊だかしたのだが部屋に戻るのはいつも0時を回り日を追うごとに2時、3時と遅くなっていったので、この部屋ではほとんど寝るだけだった。

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ベラッジオ

映画『オーシャンズ11』の舞台となったホテル。「この階段からジュリア・ロバーツが下りてきたのか」とか、「ジョージ・クルーニーが乗っていたのはこのエスカレーターか」とか、いちいち感動したものである。ホテルの前にある大きな池は北イタリアにあるコモ湖をイメージして作られたとのこと。ここで終日繰り返し行われる噴水ショーは道行く人誰でも見ることができる。『オーシャンズ11』のエンディングでメンバーが並んで眺めているのがこれ。実際に目の前で見るとけっこう迫力があって噴水の動きも多彩で見ていて飽きなかった。カジノのことも忘れて1時間も2時間も見た。見るとしたらやっぱり夜がいい。

宿泊先はここと迷ってベネチアンにしたけど、ベラッジオにしたらよかったかもという思いもある。まだ新しいホテルで、ゴージャスだしすごく雰囲気もよかった。あと立地的にもラスベガスのど真ん中という位置にあり、移動するにもここのほうが便利だったと思う。噴水ショーは何度か見たしもちろんカジノもいろいろやったし、このベラッジオには毎日のように立ち寄ったが、今となっては数少ない写真でしかその光景を思い出せない。これはラスベガス滞在全般に言えることだけど、当時はフィルムカメラだったので多くの枚数は撮れなかった。写真嫌いの人間としてはこれでも頑張って撮ったほうだけど。例えばベラッジオのトイレに入ったとき、なんときれいでゴージャスなトイレなんだと思って感動した覚えがあるんだけど、今だったら絶対に写真を撮っているはずである。でも当時はトイレの写真など撮っている場合ではなかった。とにかく今のように写真が撮れていたらなと思う。それがとても残念。

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シーザーズパレス

1966年開業の歴史あるホテル。映画『レインマン』やブラッドリー・クーパーがブレイクするきっかけとなった『ハングオーバー! 』の一作目の舞台にもなっている。『レインマン』でダスティン・ホフマン演じるレイモンドがこのホテルの前庭で車を運転するシーンがあるけど、ストリップ大通りからこの前庭を通ってホテルの建物まで行くのにめちゃめちゃ距離があって「何この無駄に広すぎる前庭は!」と思ったものだ。もちろんこれはいい意味で非常にラスベガス的でよかった。あの無駄さが。ニケ像の前で写真を撮った。

ホテルに隣接する「フォーラム・ショップス」という古代ローマをテーマにしたショッピングモールが有名。有料、無料のアトラクションがいくつもあり、いろんな楽しみ方ができる。東京お台場のヴィーナスフォートはここをモデルにして作られたのだが、やはり本家本元は規模が違う。

わりと古いホテルで言ってみれば老舗なんだけど、けっこう見た目がエレガントだし風格があって大物感があるしいろんな映画の舞台にもなっているし、ここは宿泊先の候補としては考えなかったけど、ぜひ行ってみたいホテルであった。2日目に無料アトラクションであるアトランティスとフェスティバル・ファンテンを見て、有料のレース・フォー・アトランティスっていうのに行って、あとカジノは最終日に一度しか行けなかった。カジノの光景があまり思い出せない。ひとつ書いておくと、カジノ内は撮影禁止なのでカジノの写真は一枚もない。それが残念。各ホテルのカジノはそれぞれ特徴があって、写真に撮れるものなら撮っておきたかった。今ではかすかな記憶しか残ってなくて、ほとんど思い出せない。そのこともすごく残念に思う。

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パリス

名前の通りフランスのパリをテーマにしたホテル。カジノ内はパリの街並が再現されており、カジノとしてはめずらしく明るい雰囲気の中でゲームができたように記憶している。1/2サイズのエッフェル塔は夜のライトアップが美しい。エッフェル塔には展望台があって上ることができる。塔の脚はカジノの天井を突き破って中まで突き刺さっていた。ホテルの外には2/3スケールの凱旋門もあった。ストリップ大通りを挟んだ向かい側にはベラッジオがあるので、このホテルの客室から噴水ショーが楽しめるのは隠れた特典かも。

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ミラージュ

それほど目立つ存在ではなくなったが、エンターテインメント性を取り入れた初めてのホテルであり、これ以降ギャンブルだけでなく家族連れでも楽しめる街に変化していくきっかけになったという意味で画期的なホテルであった。このホテル前で行われる「ヴォルケーノ」という火山噴火ショーも無料で誰でも見ることができる。15分おきに噴火するのでそれほど混雑はしなかった。間近で見ていると火山の炎が熱く感じられた。あの当時、ミラージュは現役バリバリで、立地的にもそうだけどラスベガスの中心的存在というイメージだった。滞在中唯一まともな食事をしたのがここのバフェだった。

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トレジャーアイランド

いつからか「TI」の名で呼ばれるようになった。映画『デンジャラス・ビューティー2』の舞台はここ。ここでも無料アトラクションがあって、ホテル前で海賊ショーが行われる。ただ1時間半ごとなのでかなりの混雑だった。

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ニューヨークニューヨーク

マンハッタンの摩天楼を形どった客室棟が印象的なホテル。客室棟のすぐ目の前をループしながら走り抜けるジェットコースターがあった。当時は「マンハッタン・エクスプレス」という名で呼ばれていた。けっこう激しくて降りたあと気分が悪くてしばらく休憩した覚えがある。

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モンテカルロ

ド派手なホテルが建ち並ぶ中で、このホテルのエレガントな白亜の建物が好きだった。もしこんな建物が日本にあったらみんな写真なんか撮りまくって人気撮影スポットになると思うのだが、このときそんなことをしているのは自分たちの他に誰もいなかった。現在は「パークMGM」と改名され、雰囲気も少し変わってしまったようで実に残念である。隣のニューヨークニューヨークからはブルックリン橋を通って行くことができる。広くて迷子になってしまうと言われるラスベガスのカジノの中ではめずらしくめちゃくちゃシンプルな長方形という形状のカジノで迷う心配がなかった。ヨーロピアンタイプのルーレット台があるということで楽しみにしていたが、時間がなくて結局プレーする機会はなかった。

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MGMグランド

MGMといえば映画のオープニングでライオンが「ガオー」と吼えるあのMGMであるが、このホテルの前にも巨大なライオン像がある。客室数は5000を超え一時期は世界最大のホテルと言われた。ボクシングのビッグマッチが行われるアリーナがある。冗談抜きにカジノが広すぎて迷った。大通りからカジノを通ってホテルの裏手にある無料トラムまで行くのにアホみたいに時間がかかる。

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バリーズ

現在のド派手なメガホテル群の中では何の変哲もない目立たないホテルであるが、何を隠そうこのホテルが元祖「MGMグランド」であり、開業当初は世界最大のホテルであった。パリスと同系列ということで、どちらのカジノチップも相互に使えた。


アラジン

アラビアンナイトをテーマにした、中東のイスラム的な雰囲気を味わうことができる貴重なホテルだった。中に入ると雰囲気は独特、においも独特だった。現在は「プラネット・ハリウッド」と名前を変えて営業。ここの敷地内には「デザート・パッセージ」というショッピングモールがある(あった)。


ルクソール

ピラミッド型をした珍しいホテルであり、中に入ると四辺の稜線に沿って昇降する「インクリネーター」と呼ばれる斜行エレベーターが見える。「オベリスクの探索」というアトラクションに行ってみたが英語がサッパリわからなかった。無料トラムの駅がちょうどスフィンクスの前にあって写真を撮った。

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マンダレイベイ

2017年10月に起こった銃乱射事件はこのホテルの部屋から発砲された。中には入らなかったけど写真だけ撮った。

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エクスカリバー

アーサー王伝説をテーマとしたホテル。お城のような外観に中世風の内装。メルヘンチックな感じで自分はあまり興味がなかったので、中に入ったのはカジノチップを入手するためのみ。下の写真の中央上辺りに見える赤と青のとんがり屋根のホテルがここ。

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トロピカーナ

特にこれといった特徴もなく存在感は限りなく無に近い。一応室内はトロピカルな雰囲気らしい。ここもカジノチップを手に入れるために入っただけ。上の写真のエクスカリバーの道を挟んで左手に見える建物がここ。ここからシャトルバスが出ているということなので待っていたら、日本人ガイドの人が話しかけてきて「待っててもなかなか来ませんよ」と教えてくれたのだが、これから向かう場所が少し離れているのでどうしようかと思っていると、さっきのガイドさんが車で現われ「乗っていきますか」と言ってハードロックホテルまで送ってくれた。


ハードロックホテル

映画『コン・エアー』の終盤で飛行機が不時着する際に、このホテルの屋根にあるエレキ・ギターをかたどったネオン看板をぶち壊していく。ディストーションのかかったギターサウンドがけたたましい音で鳴り続けるスロットマシンで1000ドル勝った、いい思い出のカジノ。隣接するハードロックカフェには入らず。

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ストラトスフィアタワー

高さ350mのタワー型のホテル。ストリップ大通り沿いにあるが、中心部からは少し離れているのでバスかタクシーで行くことになる。バスの中からタワーが見えたのでここだろうと思って降りたら、間違えてひとつ手前のバス停だということに気づき(ホテルが巨大すぎて近くに見えてしまったのだ)、こんな真っ暗なところで置いて行かれたらおっかないと慌ててバスに戻って運転手に「アイミステイク、アイミステイク」と言ったら、必死さが伝わったのか乗り直すことができた。当時このタワーの展望台のさらに上、地上277mのところに「ハイローラー」という名のローラーコースターがあった。夜に乗ると暗闇の中、空中を走っているようでスリル満点だと聞き、乗るならぜひ夜にと思ってわざわざ夜に来たのだが、営業時間が終わっていたのだった。このハイローラーは今はもうない。痛恨のミスであった。ハイローラーのことを思い出すといまだに切ない気持ちになる。ラッキーペニーの彼に会ったのはこのとき。

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ダウンタウン

このあたりもよくテレビや映画などで出てくる場所で、4つの角にゴールデンナゲットとフォークイーンズ、ビニオンズ、フリーモントが見えるポイントは特に有名。フリーモント・ストリートのアーケードの天井がスクリーンのようになっており、そこにさまざまな映像が映し出されるショー(フリーモント・エクスペリエンス)を見に行った。アーケードの全長は450m。夜になると1時間ごとに行われる。もちろん無料。ずっと上を向いて鑑賞することになるので首が痛くなる。ダウンタウンでカジノに入ったのはゴールデンナゲットだけ。少しだけスロットを打った。本当はもっといろんなカジノに行きたかったがとにかく時間がなかった。

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さらば、俺のラスベガス。

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筋金入り

こないだ儀礼や形式的なことが苦手だということを書いたが、冠婚葬祭なんていうのはその最たるもので、自分は成人式には当然行かなかったし結婚式もしていない。誰かの結婚式に出席したこともない。葬式は……ある。さすがの俺でもある。もちろん自分が死んだときには葬式など必要ないと言ってあるし、墓もそう。まあ「葬祭」に関してはいろいろあるので細かいことは書かないでおく。

そんなことを考えていて「式」つながりで思い出したことがある。小学校の卒業式のこと。今の時代はどうなのか知らないが、当時うちの地域では、男の子はスーツみたいなのを着ていくのが普通だった。三つ揃えを着てくる者もいた。とにかく男の子も女の子もよそ行きの服を着ていくのだ。しかし俺は普段どおりの服装で行った。トレーナーにジーンズ、それにキャップをかぶって。普段着で来たのは俺一人だけだった。

うちが貧乏だったので一回きりのために無駄な金を使わせたくないという思いも少しはあったが、それだけが理由ではなかったと思う。親は服を用意しようとしていたが俺はそれを強く拒否した。式に来なくていいということも合わせて念を押した。普段着で来たのは自分だけだったが、恥ずかしいという気持ちはまったくなかった。今思えばその頃からそういうことに意味を感じていなかったのだと思う。我ながら筋金入りだなと思った。

破滅願望

きっかけを待っているのかもしれない。未練を断ち切れるような何かを。待っているというか、自分から当たりに行っているようにも思える。この感じ、過去にも何度か覚えがある。あの頃は若かったから勢いがあった。迷いがなかった。それは何も考えていないただの馬鹿だったとも言えるが、どうせ馬鹿なんだったら何も考えないほうがよっぽどましだ。それが今のこれはなんや。本気で死ぬ覚悟もないのに中途半端にやるから傷だけが増えていく。まあ死ぬっていうのは比喩だけど。いや全部比喩やったわ。